2007-11-14[n年前へ]
■「天ぷらの語源」と「美味しいテンペラ画」
ニホン"Japan"と言えば、かつてはフジヤマ・テンプラ・スシ・ゲイシャだった。 この中の一つ、日本を代表するものの一つである天ぷらは、書物を辿っていくと、安土桃山時代の頃に始めて歴史に登場していることから、その時代に他国から伝わったのだろう、と言われている。
この天ぷらの語源は今ひとつよくわかっていない。 以前観たテレビ番組「謎学の旅」では、ポルトガル国立図書館に保存されている「日本使節伝記」に、1584年に日本からポルトガル リスボンを訪れていた天正遣欧少年使節が、9月18日の四旬節(クアトロ・テンプラシ)に魚の揚げ物を食べた」と書いてあることから、このクアトロ・テンプラシが天ぷら"テンプラ"の語源ではないか、としていた(二元書房「謎学の旅」 Part.2)。
イラストレーション・ソフトを作るために油絵の勉強をした時、油絵が広まる前に盛んだったテンペラ画技法について学んだ。 15世紀の画家、ヤン・ファン・エイクらが、非水溶性の顔料を油に溶いて画を描く油絵技法を確立する以前は、色を出す顔料を卵(特に卵黄)で包んで水(時には油)に溶かし画を描くテンペラ画技法が一般的だった。
非水溶性の顔料を卵白や卵黄で包むと、卵を介して水と油を混ざるマヨネーズと同じ原理で、顔料が水に溶けたエマルジョンとなる。 そのため、本来は非水溶性の顔料であっても、顔料を水に溶かし、画を描くことができた。このタネならぬ顔料を卵で包んで、水や油に溶かすテンペラ画は、まるで料理の天ぷらのようだ。
顔料を卵黄で包み油に溶かし画を描く技法はテンペラ・グラッサと呼ばれるが、私の頭の中の天ぷらのイメージは「油を加えたテンペラ画(テンペラ・グラッセ)≒天ぷら調理法」である。 天ぷらの語源が真実がどこにあるのかはわからないが、私の妄想の中では、テンペラ・グラッセのイメージ=天ぷら、なのである。
そういうわけで、テンペラ・グラッセ技法で描かれた名画は、何だか食べることができるような気がする。できれば、塩や大根おろしや柚ポン酢をかけたい。そうすればとても美味しいような気がしてならない。
2007-11-16[n年前へ]
■「美味しさを生む変化」と「老舗の銘菓」
美味しいものが、食べるとき・飲むときに感じる不均一さや変化といった「違い・移り変わり」にいよるものが大きいのだとしたら、美味しさと大量生産・長期保存は背反することになりそうだ。たとえば「堅さと柔らかさ」の両方を兼ね備える美味しいスパゲッティ、堅さと柔らかさの間を変化しつつある「皿の上のスパゲティ」はを長期保存するということは簡単にはできそうにない。あるいは、「ジョッキに注がれた黄金色のビールと白い泡」もその状態はごく短い時間しか続かない。老舗の銘菓に関する記事を読み、相反する美味しさと大量生産・長期保存を繋ぐこと、不規則に揺れ動く需要の波に対応すること、はきっと大変なんだろうと考えた。
、美味しさを生む変化や不揃いを作る技術や、それを長続きさせる技術の歴史はどういったものなのだろう。そして、そういった具体的な製法・技術とは別に存在するだろう、食べる側・飲む側が「美味しさ」を想像する助けとなる観念的なものには、どんなものがあるだろう。たとえば、「老舗の歴史」や「食べ物の由来」のような、飲食をより楽しめるような食べ物の背景にある物語の効果はどのくらいあるのだろうか。
2007-11-30[n年前へ]
■「美味しい食べもの」を表現する技術
色んな小説や随筆などの中に登場する「おいしさ表現」を集めた「おいしさの表現辞典(東京堂出版)」を読んでいると、目の前にベルトコンベアがあって、その大通りの上を「信じられないほど美味しい食べもの」が次々と行進していくような気になる。一言でいえば、「ものすごく食べたくなるのに、見てるだけ」状態になる。この本には、そんな「目の前に料理があるかのように感じる」文章が詰まってる。
祖母に、お焦げを作ってくれたどうか尋ねる。 「パリパリいってから七つ数えたから大丈夫だよ」
かまどで、硬いマキで鉄の釜で炊くご飯。しかもアツアツのおこげで握るおにぎりである。
向田邦子「父の詫び状」
文章に限らず、絵画や写真や演劇や歌といったものには、つまり、ありとあらゆる表現技術には、きっと同じ基本があるのだろう。対象物を観察して、その対象物をよく感じた上で、何を濾過して強調するか決め、そしてそれを描く、そんな原理があるのかもしれない。
湯気は人の心をほのぼのと温かくする。
東海林さだお「タクアンの丸かじり」
本物よりも美味しそうな食べ物の写真。見たことのない料理だけれど、なぜか食欲をそそられる絵画の中の料理。実際に聞く調理の音より、生き生きと音が弾けて聞こえる映画の中の厨房シーン。そういうものを作る人たちは、どういう目や耳で料理を感じているんだろうか。
両眼はきらきらとかがやき、颯爽として蕎麦をあげ、蕎麦を洗う。
池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」
そして、美味しそうに食べものを表現し尽くす人たちは、どんな風に食べものを味わうんだろう。きっと、美味しさで脳波計の針が振り切れるくらい、ADコンバータで桁あふれが起きるくらい、その美味しさを味わうんだろう。その美味しさの片鱗から生まれた表現さえ、こんなに美味しそうなんだから。
コーヒーの香ばしい香りがうす暗い店内に午後の親密な空気をつくり出していた。
村上春樹「ノルウェイの森」
2008-02-12[n年前へ]
■変わりモノ「センスウチワ」と「ハリセンス」
手で持つ部分がない団扇(うちわ)は団扇(うちわ)と呼ぶのだろうか、それとも、扇子(せんす)と呼んだ方がいいのだろうか…?と思わず悩んでしまうような、変わりモノ「センスウチワ」売り文句は「柄の部分がないので持ち運びやすく」けれど「送風量は1.5倍」というもの。ネーミングは「ハートくん」「ハートちゃん」という、いわゆるひとつのメーカ的センスだ。
そして「ハリセンス」はハリセン(張扇)にも、普通の扇子(せんす)にもなる「一粒で二度美味しい王様のアイデア的な面白センス」だ。野球場で打者がホームランを打った瞬間に打ち鳴らしてもよいし、暑い熱気を冷ますのにも似合いそうだ。
2008-03-21[n年前へ]
■「ちりとてちん」と「地獄八景亡者の戯れ」と「自己言及パラドクス」
NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」がもうすぐ終わる。エンディングに近づきつつある「ちりとてちん」では、冥土ツアーが語られる落語「地獄八景亡者の戯れ(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」を演じる音声が、画面の後ろに流れているシーンも多い。
もともとこの話は、その時その時の事件や世相流行などをとり入れて、言わばニュース性を持たせてやる演出で伝わってきたものです。
森下伸也の「逆説思考」~自分の「頭」をどう疑うか~(光文社新書)を読んでいると、冥土ツアーが語られる落語「地獄八景亡者の戯れ(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」における、自己言及的パラドックスが挙げられていた。
このはなしの一応の原典と見てよいものは江戸時代の小咄本にありますが、各地の民話にもあり、また欧州の民話にもあるそうで、…本当の原典は従ってよく判らないというのが答えと言えましょう。
森下伸也「逆説思考」で挙げられている「地獄八景亡者の戯れ」での自己言及的パラドックス一つは、三代目桂米朝のものであ り、もう一つは桂文珍のものである。ちなみに、桂米朝のものはこんな感じの「地獄八景」である。
冥土の歓楽街に、亡くなった過去の名人の名前が豪華に並んでいる。よく見ると、そこに「桂米朝」の名前もなぜかある。
「そないな名の亡くなった落語家いてへんやろ?」
「よう見て下さい。”近日来演”って張り紙してありまっせ」
「なるほど、本人はそれも知らんと落語でもしてるんですやろな」
桂米朝 「地獄八景亡者の戯れ」
もうひとつ挙げられている桂文珍のものは、閻魔の前で特技の落語として「地獄八景亡者の戯れ」を披露し始めると、その話の中でさらに、「地獄八景亡者の戯れ」が展開されて…というM.C.エッシャー描く版画のような、「地獄八景」である。
それにしても、ドラマ「ちりとてちん」は面白い。あと、一週間で終わってしまうのが残念だけれど、本当に旨く美味しい「半年間ほどの短編ドラマ」だと思う。一見長く見えるけれど、短いショート・ショートの連作のような、実はそれが繋がっている一つの短編小説のような、そんな素敵な作りだ。
その内に、これを十八番の持ちネタとして新しい「地獄八景」を作ってくれる人が出てくることでしょう。
何ヶ月かすると、このドラマのことも忘れてしまうかもしれない。けれど、何かの折に受ける印象・する選択に、どこかで影響を与えたりしてくれたら良いな、と思う。