2001-12-24[n年前へ]
■私と二度めに出会う「水」
クリスマスの小さな遺品
先日、こんなメールを頂いた。
私の娘は小学三年生。図書館から借りてきた「水の一生」といった、子供向け科学本(蛇口から出た水は下水を通って…<途中大幅に省略>…再度雨になって…というヤツです)を読んでおりました。そこで彼女はいくつかの疑問を口にしました。可愛い娘さんとお父さんの楽しそうな会話が伝わってくるメールである。「一度下水に流した水は、どのくらい経ったらまた私のところへ戻ってくるの?」さて、どう思われますか?
私 「必ずしもすべての水が海まで行くわけではなくて、下水処理場で蒸発して、川の取水口あたりで雨になる分子もあるはずだから、そうだなあ、一番早くて3日くらいかなあ。 勿論もっと長い場合もあるし、一度流したらキミが生きている間にはここには戻ってこない分子もあると思うよ」
「コップ一杯の水の中で、私と2度目に出会う水はどれくらいあるの?」私 「う〜ん… どれくらいなんだろう?」
ところで、この後半の疑問「コップ一杯の水の中で、私と2度目に出会う水はどれくらいあるの?」というのはたまに見かける話である。何かの小説で、「このコップの話が主人公が科学を志したきっかけになっている」という小道具に使われている例も読んだことがあるような気がする。
たまに見かける話ではあるのだけれど、同じ本を読んでも人それぞれ抱く感想は違うし、私なりにも考えてみたい気もしたので、今回はこの「コップ一杯の水の中で、私と2度目に出会う水はどれくらいあるの?」を考えてみることにした。
人が一日に「出会う」水はどの位の量だろうか?成人男子が安静にした状態で、一日当たり大体2.5リットルの水を消費するという。すると、小さい子供の場合でも、少なくとも一日2リットルくらいは水を消費する、つまり水と「出会って」そして「分かれる」ことになる。2リットルの水というと、2000gだから、これを水の1molあたりの重さ18g /molで割って、さらにアボガドロ数(1mol当たりの分子数)をかけてやると、(2l = 2000g ) / 18g x 6.022x1023個 = 6.7 x 1025個となり、私たちが一日に出会う水分子の数の個数がわかる。
この「とある一日に私たちが出会った水」が川へ流れて、海へ流れて、地球上にまんべんなく拡がったとしよう。地球上の限りなくある水の中に含まれる「とある一日に私たちが出会った水分子」の割合は、いったいどのくらいの程度になるのだろうか?
地球上の水は大体14億km3くらいだという。そのほとんどは96.5%は海水で、残りが陸地のさまざまな場所(そしてわずかに空気中)に存在している。この地球上にある水の重さを計算すると、14億km3= 1350000000km3 = 1.4 x 109 x 1012 kg= 1.4 x 1024 g ということになって、これを水の1molあたりの重さ18g /molで割ってやると、地球上に存在する水分子の総量は 1.4 x 1024/ 18 = 7.8 x 1022mol ということになる。mol数から水分子の量に直すために、アボガドロ数6.022x1023個/molをかけてやると、地球上の水分子の総量= 4.5 x 1046 個という数字が得られる。
すると、地球上の限りなくある水の中に含まれる「とある一日に私たちが出会った水分子」の割合は
「とある一日に私たちが出会った水分子」 / 地球上の水分子の総量 = 6.7x 1025個 / 4.5 x 1046 個 = 1.5 x 10-21= 0.00000000000000000015%というとても小さい割合になる。この割合は、新たに水分子と出会った時に、その水分子が「とある一日に私たちが出会った水」である確率と言い換えても良いだろう。とにかく、私たちの普段の生活の感覚からすれば、限りなく小さく思えてしまう。しかし、その再会の確率はとても小さく思えてしまうのだけれど、決して私たちは「とある一日に私たちが出会った水分子二度と水と再会しない」わけでは無いのである。
例えば、180mlのコップ一杯の水の中には( 180ml = 180g ) / 18g x 6.022x1023個= 6.0 x 1024個の水分子が含まれている。ということは、このコップ一杯に含まれる水分子の中にいる、かつて「とある一日に私たちが出会った水分子」の数を計算してみると、
コップ一杯に含まれる水分子の数 x 「とある一日に私たちが出会った水」である確率= 6.0 x 1024個 x 1.5 x 10-21 = 9000個ということになる。コップ一杯の水の中にはかつて「とある一日に私たちが出会った水」が一万個近くも存在していることになる。
しかも、この計算は「とある一日に私たちが出会った水分子」だけで計算していて、決して「これまでに私たちが出会った水分子」で計算しているわけではないのだから、「コップ一杯の水の中で、私と2度目に出会う水」はもっと多いことになる。もちろん、実際には私たちが消費した水が理想的に拡散したりはしないだろうから、こんな風に上手くはいかないだろうけれども。
とりあえず、「コップ一杯の水の中で、私と2度目に出会う水はどれくらいあるの?」という疑問を口にした小学校三年生の娘さんには、「ずっと昔のある日に出会った水がコップ一杯の中には一万個近くもあるかもね」と答えておくのが良いかもしれない。計算の中身、アボガドロ数なんて言っても、小学校三年生では「あぼがど?あぼがろど…?」と頭がこんがらがるだけかもしれないけれど、とりあえず「おとーさんって、何でもわかるんだー」とちょっとくらいは尊敬されたりするかもしれない。
そういえば、先日東京で初雪が降った。「雪は天から送られた手紙」とは中谷宇吉郎の残した名言だけど、その雪を見ながらこんなことを考えた。
ある日誰かが亡くなり、荼毘に付される。すると、その人の体のほとんどの部分は火と共に空へ昇っていくことだろう。成人の体のおよそ60%は水分だから、体重60kgの人であれば、その60%の36000gもの水が空へ還ってゆくことになる。その空へ還っていった水分子が世界中に散らばっていった後に、いつかまたその水分子と出会うためにはどの程度の水があれば良いだろうか?どの程度の水があれば、この中には「かつてあの人と共に空に帰っていった水分子」が一個くらいはある、と言えるものだろうか?
これを先程と同じように計算してみると、ほんのちょっと「1 x 10-3g」ほどの水があれば、その中には「かつてあの人と共に空に帰っていった水分子」が一個くらいある、という結果になる。「1x 10-3g」ということは、大きさで言うと1mm3ほどになる。ちょうど雨粒一滴と同じ位の大きさだ。空から降ってくる雨一粒の中には「かつて亡くなった人と共に空に帰っていった水分子」が1個が漂っている、ということになる。
冬の雪の一片の大きさが雨の一粒と同じくらいであるかは判らないけれど、今日のように何時の間にか雨が雪に変わることもあるくらいだから、やっぱり雪も雨と同じような大きさなのだろう。だとすれば、空から降ってくる雪の一片の中には、「かつて亡くなった人と共に空に帰っていった水分子」が1個宝石のように入っていてもおかしくはない。「雪は天から送られた手紙」であるならば、その中にはその手紙を天から送ってくる「かつて亡くなった人」のまるで遺品が1個づつ封じ込められているのである。「雪は天からの遺品」と言っても良いかもしれない。
間もなく、クリスマス。そして、クリスマスには白い雪が付き物だ。空から舞い降りてくる白い雪の中には大切な1個の水分子「クリスマスの小さな遺品」が入っているのである。
2003-01-13[n年前へ]
■江戸から続く秘伝のタレ?
昔ながらのウナギが食べたい
最新記事:ガリガリ君のアタリは法律上限の2倍近い高確率だった!?
最近、少し貧血気味だったりする。こんな時はもちろんウナギを食べたくなるのである。美味しいウナギを食べたくなるのである。
そういえば、江戸時代から続く老舗の鰻屋などでは「ウナギを焼くときに使うタレは創業時から使い続けている」というように聞く。ウナギのタレを壷に注いで、使っては継ぎ足し、また次の日使ってはさらに継ぎ足して、二百年以上もその秘伝のタレを使い続けているということである。「ウチのタレは江戸時代から続くタレでございます」というわけである。なるほど、そんな風に保たれている秘伝のタレは長い間熟成され続けて、さぞかし美味しいに違いない。江戸時代から守り続けられているタレはきっと栄養だって満点に違いないのである。もしかしたら、ワタシの貧血だって一発で直ってしまうかもしれない。
ところで、「ウチのタレは江戸時代から続くタレでございます」とはいっても、もちろんそれは言葉通りの意味ではないだろう。その言葉が意味するところは、「江戸時代からの味の伝統を代々受け継いでいますよ」ということであって、言葉通りの「江戸時代にできたタレが目の前のウナギに塗られている」ということではないだろう。
とはいえ、そんな老舗のウナギを食べる方の心理からすれば「江戸時代の頃にできたタレが今でもその壷の中に残っているんじゃないだろうか?」と考えてしまったりもすることだろう。そして、二百五十年近く壷の中で熟され続けてきたそんな素晴らしいタレが自分の目の前のウナギにかかっているのではないか、と感じたりするに違いないのである。
果たして、そんな老舗の鰻屋の秘伝の鰻のタレの壷の中の何処かに、江戸時代に作られた「タレ」が今も潜んでいたりするものなのだろうか?江戸時代に調合されたタレの分子が、今も秘伝の壷の何処かに漂っているのだろうか?江戸時代にその壷に注ぎ込まれたタレに含まれている水分子(タレのほとんどは水だろう)が、今でもその壷の中でじっとワタシに食されるのを待っていたりするものなのだろうか?きっと、誰しもそんな疑問を持つことだろう。少なくとも貧血気味のワタシの頭はそんな疑問を持ったのである。そして、「江戸時代にできたタレの分子」をぜひとも食してみたい気持ちに襲われるのである。
そこで、江戸時代から続くような老舗の鰻屋の秘伝の「ウナギのタレの壷」の中に漂う「江戸時代にできたタレの分子数」を簡単に計算してみることにした。鰻屋が
- 創業時にある一定の容量の「ウナギのタレの壷」を満タンにして
- ウナギを食するお客一人当たり25ccほどのタレを使い
- 減った分を新しく作ったタレを注ぎ込んで補充し
- 壷の中身をよ~く撹拌して、次のお客に備える
赤:特大サイズの壷の場合 ( 容量3500リッター ) |
この結果を眺めると、中サイズの壷の場合は十年経たないうちに「創業(江戸時代)の頃にできたタレの分子」は壷の中からなくなってしまうことが判る。また、大サイズの壷の場合も七十年程でやはり同じように「江戸時代の頃にできたタレの分子」がなくなってしまっている。特大サイズの壷ではじめて、「江戸時代の頃にできたタレの分子」が今も壷の中に眠っているということが判るのである。
しかし、である。「じゃぁ、特大サイズの壷を使っている老舗の鰻屋に行けば良いのね」と簡単に納得してはイケナイのである。何しろ、この特大サイズの壷は容量が3500リッターもあるのである。つまりは、タレが重量3.5トンほども入っている超巨大な壷なのである。3.5トンの壷ってなんやねん、とツッコミたくなるもの当然の不自然きわまりない、ありえないようなサイズなのだ。それはほとんどほとんど貯水タンクと言った方が良いサイズなのである。つまり、言い換えれば普通サイズの壷を使う限りは「江戸時代にできたタレの分子」に出会うことはほとんど不可能だ、という結果になってしまうわけだ。非常に残念なのだが、「江戸時代にできたタレの分子」を食することはとても難しそうなのである。
とはいえ、それはあくまで毎日100人のお客が鰻を食べに来る人気の鰻屋の場合である。下に示すような、毎日2人のお客しか鰻を食べに来ない不人気の鰻屋の場合は少々事情が違うのである。特大サイズどころか中サイズの壷の中でさえ、ちゃんと250年経っても「江戸時代の頃にできたタレの分子」が残っているのである。ほとんど、客が来ず、そしてウナギのタレが消費されないがために、「江戸時代の頃にできたタレの分子」が必要十分すぎるほどに守られているのである。まさに「ウチのタレは江戸時代から続くタレでございます」なのである。
赤:特大サイズの壷の場合 ( 容量3500リッター ) |
と書いてはみたものの、そんな不人気店が江戸時代から二百五十年以上も潰れずに残ってるかぁ、とか、そもそもそんな不人気店のウナギをおまえは食べたいのかぁ、とか、そもそもそこまで寝かされているタレはもう腐ってらぁ、という反論異論が出ないわけはなく、やはり非常に残念なのではあるけれど、「江戸時代にできたタレの分子」を食することはどうもできそうにない。
ところで、「鰻のタレの壷」ではないけれど、「継ぎ足して使い続けている」ようなものは他にも世の中に数多くある。例えば、「血液」なんていうものだってそうだ。秘伝のタレと同じように、私たちの体の中には毎日毎日新しい血液が作り足されている。時には血液が足りなくなってしまったときに貧血気味になってしまったり、さらに血液が足りなくなってしまえば他の人の血を「輸血」という形で継ぎ足すようなことだってある。そんな風に、何処かの誰かから何処かの誰かへ輸血された血が、そしてその血の中の水分子が今どこに漂っているかをふと考えてみたりもする。そんな血液の中の水分子はもしかしたら、体から排出されてどこかの海を漂っているかもしれないし、何処かの空を漂っているかも知れない、そしてもしかしたら、まだ何処かの誰かの体の中で漂っているかも知れない。そんなことを考えてみたりもする。
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