hirax.net::Keywords::「坪内祐三」のブログ



2008-05-21[n年前へ]

「言語の特徴」と「古池や蛙飛び込む水の音」 

 言語はそれぞれ個性を持っていて、それを学ぼうとする私たちは、それを新鮮に感じたり、それを面倒だなぁ、と感じたりする。たとえば、名詞ごとに性別があったり、複数形単数形で言葉が姿を変えたりする。あるいは、音の大きさでリズムが刻まれたり、あるいは、音の高低で言葉の意味が変わったりする。そんな特徴は、私たちを悩ませると同時に、不思議な面白さも感じさせる。

 今週号の週刊SPA!の坪内祐三×福田和也「これでいいのだ!」を読んでいて興味深く感じたのが、松尾芭蕉の「古池に飛び込んだ蛙は一匹か?100匹か?」という話題だ。自然な日本語では、複数形と単数形をほとんど区別しない。だから、「蛙」という言葉が書かれていても、その蛙が一匹なのか、それとも100匹なのかはわからない。そして、「水の音」と書いてあっても、それが「たくさんの水音」なのか、「ひとつ響き渡る水の音」なのかは、わからない。

古池や蛙飛び込む水の音
  松尾芭蕉

 この「蛙」をラフカディオ・ハーンは"frogs"と訳し、正岡子規やドナルド・キーンは、"a frog"と訳したという。古池の水面に一匹の蛙が飛び込み水音が静かに聞こえるのと、たくさんの蛙が次々と水中に飛び込んでいき、その音が次々と響き渡るのとでは、全く違う景色である。全く違う世界だ。「終わり」と「始まり」という言葉と同じくらい違う趣(おもむき)の景色だ。

 蛙が何匹であるのか、その水音はどんな響きなのか、それは読者の心が決める。その自由度が、曖昧であると同時にとても良い。

松尾芭蕉






2009-05-26[n年前へ]

”データ先行病という現代病” 

 週刊SPA! 2009/6/2号 坪内祐三×福田和也「これでいいのだ!」VOL.340より。

 (坪内祐三)実感よりも、データが先行する、データが優先される。・・・例えば、出版の現場も、データ主義になっていてさ。ずっと雑誌にいた知り合いの編集者が、15年ぶりに書籍に移ったの。そしたら、団塊の世代くらいの上司が、「データ、データ、データ、売上データ!」で仕事をしていて、驚いちゃったんだって。・・・「偏差値秀才は良くない」って言ってた人たちが、逆に、偏差値的なデータに振り回されちゃってさぁ。
(右上のサムネイルは「経済成長という病 (講談社現代新書) 」)

2010-04-21[n年前へ]

「星新一 一〇〇一話をつくった人」の350頁から次の頁にある言葉 

 最相葉月の「星新一〈上〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫) 」を読んで、坪内祐三が書いた書評のラストがこの文章である。

 先に私は、誰もが星新一を読んだことがあるはずだ、と書いた。逆にいえば、みな、星新一を卒業してしまう。
 それから星新一の苦悩がはじまる。それがこの評伝の一番の読み所とも言えるラストスパートだ。

「文庫本を狙え!」 616 週刊文春 「文春図書館」
 下巻の三百五十頁から三百五十一頁にかけてを私は何度も読み返している。
 こう書かれると、その頁に一体どんな言葉が綴られているか、知りたくてたまらなくなる。

 この文庫本は、三年前に出た単行本「星新一 一〇〇一話をつくった人 」を文庫として出版したものだ。文庫版は、先日出たばかりの本だから、「私は何度も読み返している」というのは、ひと桁程度の「何度か」なのかもしれないし、あるいは、単行本を読んでの「何度も」なのかもしれない。

 「星新一 一〇〇一話をつくった人」は単行本で読んだ。単行本を読みながら、最相葉月が書く星新一の物語は、愛が感じられていい、と思いつつ読んだ記憶がある。この単行本の一体何ページ目が「文庫本の下巻の三百五十頁から三百五十一頁」にあたるのだろう。坪内祐三が何度も読み返している、と書く文章は、一体、単行本ではどの頁にあるのだろう。



■Powered by yagm.net