hirax.net::Keywords::「定義」のブログ



2007-07-03[n年前へ]

科学とオカルト 

 「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」を読んだ。

 オカルトとは元来「隠されたこと」を意味し、…シェパードによれば「通常の経験や思考ではとらえることのできない神秘的、超自然的な現象を信じ、これを尊重しようとする進行全般を示す概念であって」(渡辺恒夫・中村雅彦「オカルト流行の深層社会心理」)ということになる。 …この定義に従うと、ビッグバン仮説を信じている物理学者はオカルト信者となってしまう。なぜなら、百五十億年前、宇宙はゴルフボールぐらいの大きさだったと主張するビッグバン仮説は、通常の経験や思考ではとらえることのできない進歩的、超自然的な現象を信じることにほかならないからである。  「科学とオカルト」 P.17 第一章 科学の起源
 「水からの伝言」に関する記事へのブックマークを眺めるとき、そこには「オカルト」「ニセ科学」「科学」なんていうタグがついていることが多かった。それらのタグがどういうことを指そうとしているのか、そんな言葉にはどんな過去があるのかを考えてみたりした人たち、あるいは考えなかった人たちであれば、この 「科学とオカルト」を読むときっと面白いと思う。
 十六、七世紀の第一の科学革命の頃、業績評価というのは、もっぱら異端審問のためのものであった。…理論は所詮オカルトであり、背反する神学的信念のどれが正しいかを決める客観的基準などあり得ようはずはなかった。 十九世紀になり…さまざまなオカルト(個々の研究者の理論や実験結果)を平準化する必要が生じた。オカルトの大衆化あるいは民主化といってもよい。社会的に平準化されたオカルトは、公共性を獲得したのだから、もはやオカルトとはいえない。それでは何と呼ぶかというと、「科学」ということになったわけだ。実に科学とはオカルトの大衆化だったのである。  「科学とオカルト」 P.47 第二章 オカルトから科学へ
 アーサー・C・クラークは「十分に発達した科学は、魔法と区別がつかない」と書いた。科学の専門化・細分化・高度化が進む21世紀は、そんな科学と魔法が区別が付きにくい時代なのかもしれない。

2007-09-15[n年前へ]

「線路」と「人生の方程式」 

 朝早くは晴れていたけれど、10時を過ぎる頃には雨と霧で包まれる。高原特有の、白い霧が風に早く運ばれていく。

√a = 18 旅路(ルート)の中では、人はいつも18(age)である。
 青春18切符をポケットに入れて、京都と東京の間を11時間かけてよく移動した。
河から海へ船が出て行く。後ろの港には船が帰っていく。風の流れがそのまま波を動かして、その波の上に立っている人たちがいる。風が吹くともっと潮の匂いが強くなる。
 安いPCでグリッド・システムを組むと、どうしても巨大なハードディスク領域ができあがる。そんな領域を有効活用しようと思うと、Gmailみたいなものになるのだろうか、と昔考えた。
 この方程式で使われている"="は、いわゆる等号"=="ではなく、代入の"="かもしれません。
 "=="が"="に変化した途端に、「人生の方程式」が「人生の定義式」に変わる。自らは決め得ない未知数を条件に応じて解くという行為が、能動的に何かを決めていくということに変わる。
 素直に言い換えれば、「旅路(Route)の中では、人は誰でも18(Age)になる」というコピー文そのままに変身します。さらに言い換えるなら、「すべての人を18歳の頃に戻す」ものが「旅路(Route)」なんだと、声高らかに宣言する力強い定義式なのかもしれません。
 荒木経惟が撮る青春18切符が好きだった。あるビルの回転ドアを出るとき、その回転ドアの対角線上には、ビルへ入っていく荒木経惟がいた。
 自分や他人のつまらない考えに沿った「道(Route)」の上を走り続けるのも、なんだかつまらなく感じられることがあります。そんな時には、そんなルートを外して色んなものを眺めてみるのも、少しだけは、良いのかもしれません。 
 "=="が"="に変化した時、 if 文で使われる「こんな場合には」という等号が、定義という意志と行動に変わる。
「決められたレール」は無いほうがいい。  1995年 「青春18切符」冬

2007-09-21[n年前へ]

「画像処理+Wiki」 → 「画像処理」 + 「Wiki」 

 Rails の勉強がてら作っていた 画像処理+Wiki アプリを手放し、次のアプリを作り始めた。"Our Axes"という名前のWiki アプリケーションと、画像処理に特化したアプリケーションだ。

いつも、「今日」という日を過ごしているはずなのに、その日見た景色が「今日見た景色」でなくなっていくのは少し不思議なことです。
 Wiki アプリを作ろうと考えると、自分の中で「Wikiという言葉で表される、作りたいもの」が、偏っていることに気づく。作りたいのは、「言葉に対して定義を書くことができて」「言葉同士が繋がっているもの」だ。
ふたたび日曜日が そうしてふたたび月曜日がふたたび曇り ふたたび晴れしてその先に何がある?
そして、画像処理+Wiki アプリ で"言葉""キーワード"を"イメージ"にすり替えようとしたように、作りたいのは、「言葉でなく"イメージ"に対して、定義を書くことができて」「その"イメージ"同士が繋がっているもの」だ。
疲れたので、明日からピラミッドの中でエネルギーを充電してきます。
 言葉でなく"イメージ"というからには、人それぞれによって"イメージ"が違う。もちろん、本来、言葉だって人それぞれによって定義が違うけれど、いわゆるWikiの流れを組むツールではそれが明示的に見えないのが、好みでない。
 とはいえ、「昨日見た景色」が「今日見た景色」と違うわけではないし、景色を眺めている私もやっぱり同じ私です。だから、やっぱりどれも「今日見た景色」だと思うのです。
 とはいえ、そんな"イメージ"だけがあったところで、作ってみないことには始まらない。というわけで、曖昧なイメージを形作り始める。

2008-04-29[n年前へ]

「手作り三次元グラフ」と"Life Work" 

 少し前に、「仕事」と「趣味」を、「本人(自分)の欲求」と「他人の満足」という2軸で表される実軸・虚軸で表現される複素平面に描いてみました。注釈を付けるまでもなく、この「仕事」も「趣味」にもカッコ(「」)が付いています。

 カッコは、時に「いわゆるひとつの」という程度の意味を表したり、あるいは、時に「私の感じる言葉とは違うけれども、その人の使う言葉の定義に沿って使って・考えてみれば」というような意味合いで使われることがあります。だから、カッコ(「」)付の言葉が出てきた時には、あるいは、カッコ付の言葉とカッコが付かない言葉が同時に出てくる文章を読むときは、このカッコは何を意味しているんだろう?と考えると、その文章から何だか不思議な立体感を感じたりすることがあります。もしかしたら、それが文章の書き手の中の意識、書き手が眺めるものの距離感なのかもしれない、と感じます。

 さて、「"複雑極まりない"複素平面」上に「仕事」と「趣味」を描くを書いた次の日、"Life Work"という言葉を使ったら、どのようなことを思い、どのようなものを描き・書くだろうか、と考えました。「仕事」という言葉から、"Work"という言葉を経て、"Life Work"ということを考えたらどう思うだろう?と感じました。

 そして、もう一つ、「"自分(本人)の欲求・満足"と"他人の満足"という2軸で表される複素平面に、少なくとも"時間軸という軸を一つ増やしたい」とも強く思いました。私たちを大きく支配する軸でもあり、私たちにとって希少なものでもある"時間"という軸を増やしてみたいと、思ったのです。

 そこで、そんな三次元空間を「ホワイトボード」と「色粘土」と「焼き鳥用の串」で作ってみました。下の写真が、その手作り”三次元空間(複素空間)”です。


 黒色で示した横軸は"他人の満足"という軸(あるいは、その"他人の満足"が形を変えた”お金”といったもの)です。青色で示した縦軸は"自分(本人)の欲求・満足"を示す軸になります。そして、赤色で示した鉛直に真上に向かっている軸(色塗りした"焼き鳥用の串"と"色粘土"にしか見えないかもしれません)が"時間軸"です。

 誰かが行う何かの作業を考えたとき、この空間はその誰かの作業に対する"ある3つの軸による評価値"を示したに過ぎません。他にも数限りない色々な軸があり、色々な眺め方・受け止め方があるように思います。

 また、同じような作業であったとしても、その作業をする人によって、この空間での「座標」は異なってくることでしょう。それは、たとえば「梅宮辰夫の"釣り"」と「釣キチの"釣り"」が、その作業内容が同じようなのに、商品価値(黒い横軸)としては大きく違ってしまうようなことです。

 試しに、今の時点での「梅宮辰夫の"釣り"」を緑色の球で、「釣キチの"釣り"」を黄色の点で手作りプロットしてみました。もちろん、材料は色粘土と焼き鳥用の串です。


 そしてまた、時間軸に沿って、誰かが行う同じ作業でも、その位置・取り扱われ方が異なってくることもあるでしょう。10年後にも「梅宮辰夫の"釣り"」が今と同じ商品価値を持っているとは限りませんし、逆に、「あなたの知り合いの釣キチの"釣り"」の方が他人に満足を与えているかもしれません。あるいは、ゴッホが生きている時点では、ゴッホの"Art Work"は収入源とはとても言えなかったわけですが、現在では、ゴッホの絵画を見るために人が集まり、その絵画を手に入れるためにたくさんのお金が集まります。

 つまり、"誰かが行う何か"を示すこれらの点は、時間を経て動いていくのが普通だと思います。時代の変化にしたがって、何一つ違わない同じ"誰かが行う何か"なのに空間中を移動していって、商品価値を失ったりすることは、よくありそうに思われます。

 また、その人の技術の向上といったさまざまなことを理由にして、これらの焼き鳥の串に刺さった色粘土、・・・じゃなかった、その人の作業自体が変わり、この空間における位置づけを変えていくこともよくあることだと思います。

 先のことは、誰にもわかりません。「確か」でないことは、世の中に満ち溢れています。「この努力が報われる日が来るのだろうか?」「この釣り番組はいつまで続くのだろうか?」「(定年がある人であれば)定年の先には何があるんだろう」といったことをふと考えて、不安が沸いてくる人も多いことでしょう。

 そんなことを考えているうちに、"小説家になりたい"という言葉に強く頷く人もいれば、"それじゃ意味がわからないよ。どんな小説を書きたいのさ?"という風に感じる人もいるだろうな、というようなことが何故か頭の中に浮かんできました。そして、さらに「"Life Work"って何だろう?」「"Life"って何だろう?」と、今更ながらに思ったのでした。

 若き二ツ目が、さまざまな努力と工夫を重ねて暗中模索する姿を、私は美しいと見る。陽の当たらない場所で悪戦苦闘する二ツ目の中で、誰が将来の名手になるか。こればっかりは絶対にわからない。若くして天才ともてはやされた麒麟児が老いて駄馬になったり、ヘタクソの見本みたいだった人が五十代になって突然名人の域に飛躍したりする例が、落語家には少なくないからである。
   江國滋 「落語無学」

 そうそう、とりあえず一つだけ確実なことを見つけました。それは、「粘土遊びは楽しい」ということです。色鮮やかな粘土で、色んなものを作って遊ぶのは、とてもワクワクする、ということは「確か」なようです。

三次元記入例手作り三次元グラフ






2008-05-02[n年前へ]

理科の教科書に出てくる「仕事」と「駅前で聴く音楽」 

 力積で考える「カミソリパンチ」と「ググゥーッと押し込む打撃」の「力積」は「力の大きさと力が働く時間を掛けあわせたもの」です。その一方、「力と変位を掛け合わせた(内積)もの」を、理科の教科書の中では「仕事」と呼びます。


ちなみに、AがBに「仕事」をすると、AからBにエネルギーが移ります。

 中学か高校の頃、理科か物理の教科書の中で「仕事」という言葉が出てきたときに、何だかその言葉の感覚と教科書の中での定義がズレていて首を捻ったような覚えがあります。たとえば、Wikipedia に「仕事とは呼ばない例」として挙げられているようなこと

 人が重い荷物を抱え・支えている状況では、荷物は静止していて、エネルギーは変わらない。つまり、この場合、人は荷物に対して仕事をしていない。
を聞きながら、それは仕事でないのかぁ……!?と悩んだわけです。「重い荷物を抱え・支えている状況」はとてもしんどそうなのになぁ……と感じました。それは「仕事」ではないかもしれないけれど、筋肉がパンパンにつく肉体改造・大成長状態だろうに……と思ったのです。
 私と同じように、理科の教科書を読みながら、頭の中に大きなハテナマークを浮かべた人はきっと多いと思います。

 先日、「手作り三次元グラフ」と"Life Work"「"複雑極まりない"複素平面」上に「仕事」と「趣味」を描くといったラクガキをしました。そのとき、”理科の教科書の中の「仕事」の説明を読みながら、頭に浮かんだハテナマーク”を思い出しました。
 あのラクガキ中の「他人の満足」という軸は、「その人がどれだけ他の人を満足させたか・その人の力で他の人(の心を)どれだけ動かしたか」という、まるで理科の教科書に出てくる「仕事」なのかもしれない、と感じたのでした。

 駅前で誰かが演奏している音楽を聴いて心が動かされたとき、「何だか心の中に豊かなエネルギーが入ってきたなぁ」と思ったりもします。それを、理科の教科書を思い出しながら言うならば、「あぁ誰かに仕事をされたんだなぁ」と感じたりするのです。

 「力積」と「仕事」はイコールではありません。もしも、「自らを脅かし・揺るがし、新たな出会いや発見がある」としたら、それは「仕事」よりは、力積に近いものなのだろうか、と思っています。



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