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2011-01-10[n年前へ]

「高く空へ駆け上がる人たち」と「地面に這いつくばる自分」 

 長野オリンピックの舞台、白馬の八方尾根の麓で、白馬ジャンプ台を眺めれば、ノーマルヒルでも十分すぎるほど高く、ラージヒルはさらにその上まで伸びています。古代の時代から、人はあまりに高い場所に行ってはイケナイと伝えられていたように思います。たとえば、それは空高く飛ぼうとしたイカロスや、上へ伸びすぎたバベルの塔のごとく、人は高すぎるところに登ってはいけない、と神さまが人にいつも語りかけていたような気がします。少なくとも、絵本の中の人間たちは、いつもそんな風に描かれていたように思います。

 白馬ジャンプ台のコース上に立つと、あまりの高さに体が思うように動かなくなり、ただただ、雪面と一体化したいと願います。しかし、そんな中、コースに入った雪をかき・溝を奇麗に整えようとしている人がいます。そんな人に「スキーのジャンプをされたことはありますか?」と訊ねれば、空から下を眺めるような笑顔で、「私もノルディック複合の全日本代表でしたから」とその人は笑うのです。

 こんなところから、空へ飛び出して行く人たちは、「限界に挑み続ける人」をまさに具現化する人たちに違いない、とジャンプ台の雪上で這いつくばりながら確信したのです。そして、空へ高く飛び、雪降る林の中を駆ける人たちには、どうやっても近づくことはできないに違いない、と悲しく感じると同時に、そういう人を眺めることができることを心から嬉しく感じたのです。






2011-01-15[n年前へ]

「じどうかねつき」 

 「じどうかねつき」とPCのキーを叩くと、「自動加熱器」と変換されました。確かにそれが自然だよな・なかなかに賢い漢字変換だなと思いはすれど・・・入力したかったのは実は「自動加熱器」ではなく「自動鐘突き」なのです。

 夕暮れの道を歩いていると、お寺の鐘が鳴り始めました。夕暮れに響く鐘の音は本当に美しく聞こえます。だから、思わずその鐘の音の源を眺めてみれば、なんと、梵鐘を突く撞木のそばには人一人いませんでした。鐘は自動で突かれているのです。私が思わず聞き惚れた。冬の空気に美しく響く鐘の音は、「自動鐘突き」の音でした。

 最初は、機械が突いた鐘の音なんて、となんだか味気なく思いました。けれど、・・・このお寺には人は住んでいなくて、夕方に鐘を突くことができる人もいなくて、こんな機械がなかったとしたら、鐘の音は響かないままなのかもしれない、とも考えたのです。

2011-01-16[n年前へ]

空飛ぶ「お賽銭箱」 

 年越ししてしばらくたった寒い朝、道端に小さなお賽銭箱が落ちていた。どこかの境内から空を飛び、この場所までたどり着いたらしき「お賽銭箱」の中には、どのくらい入っていたんだろう。

 お賽銭は、以前はお金でなく米で、さらに米になる前には石だったという。石がお賽銭だった時代には、お賽銭が空を飛ぶことはなかったのだろうか。

 そういえば、海に浮かぶどこかの島では大きな石のお金が使われていて、その石の価値はその石をその島まで運ぶために失われたものたちで決まる、と聞いたことがある。

 また、その石貨の価値を決めるのは大きさや目方ではなく、 それぞれの石貨にまつわる涙と汗の物語なのだそうだ。 何百キロもの大海原を越えて重たい石貨をカヌーで持ち帰るには、計り知れない苦労と危険が伴う。 何度も命の危機に瀕し、あまつさえ海に沈んだ者もいた。 どんなに苦労しどんなに犠牲者がたくさん出たか、 そうした涙と汗の英雄譚がその石貨の価値を高めるのだそうで、 苦労して持ち帰られた石貨ほど、価値が高いらしい。 (ヤップの石貨

 ここまで辿り着いた「お賽銭箱」を量るとしたら、一体、どんな目方で量られるのだろうか。

賽銭箱






2011-01-18[n年前へ]

「ヨクスベール」の物理学 

 冬と言えば、・・・どんな連想をするでしょうか?それはもちろん「スキーアルペン競技だ」という人もいるかもしれませんし、あるいは、「入試で頭が一杯です」という人もいるかもしれません。どちらの「冬」にしても、共通するのは「すべる」という言葉です。

 「スキーアルペン競技」では滑らないと困りますが、入試は滑ると困ります。・・・そういう意味では、受験生はお笑い芸人と同じであって、そして、スキー競技選手とは違うのです。スキー選手はスキー板にワックスを塗り、どれだけ滑ることができるかを突き詰めます。その一方で、受験生やお笑い芸人は、太宰府天満宮やテレビ局に行き、「なにとぞ滑りませんように」と心の底から祈るのです。

 狩野英孝が太宰府天満宮のお守りを握りしめ雪面へ飛び出したら・・・、松本人志が最高にチューニングされたワックスを板に塗り登場したら・・・、一体誰が一番「滑り」『滑らない」のでしょうか。どこの神社のお守りが「一番滑らなくて」どの芸人が「一番滑る」のでしょうか。・・・あるいは、最高に頭が良い受験生が、バッファロー木村が絶妙に調合した「ヨクスベール」を服用して入試に挑んだら、果たして「すべる」のでしょうか、それとも「すべらない」ですむのでしょうか? ?

 ヨクスベールを塗りたくりたいスキーヤー、絶対に塗りたくない芸人や受験生たち、冬の季語、悲喜こもごものさまざまな意味を持つ、「すべる」「すべらない」の物理学を構築したら、一体どんな科学になるのでしょうか。お笑いの静・動摩擦係数は、・・・一体どんな風に定義し・解析することができるのでしょうか。

2011-01-23[n年前へ]

作ってみたい!?「サイエンス・クックパッド」 

 台所の片隅にいる片栗粉は、馬鈴薯から作られた澱粉(デンプン)からなる粉体です。ということは、砂浜にある砂と同じ粉体というわけで、プールに片栗粉を注ぎ込むと、そこはまるで砂浜のような存在になります。つまりは、その片栗粉の上は、足をとられるながらも走ったりすることができる、というわけです。

 ところが、「海辺の足あと」と「液状化」で書いたように、粉体の中に液体が侵入してくると、液体が粉体間の摩擦・抵抗を下げ、まるで液体のような状態に姿を変えてしまいます。だから、たとえば、砂浜の砂は、波が押し寄せてきた瞬間に、まるで底知れぬ沼であるかのように姿を変えるのです。

 波に洗われている辺りの砂は、意外に締まっているものです。波が砂を洗うたびに、砂は奇麗に整列し直され、密で丈夫な構造に姿を変えます。そのため、砂の上に体重を乗せても、砂浜はびくともせず、奇麗な平面を保ち続けます。

 けれど、そんな足裏にある固い砂浜の感触は、波が砂を洗う瞬間にはどこかに消えてしまうのです。波が足下を洗った瞬間、足下にあるのは「固さというものが微塵もない液体」だけになり、足がズブズブと砂浜の中にめり込んでしまいます。
 ということは、プールに注いだ片栗粉に、さらに適度な量の水を注ぎ入れると、それは白い液体状のものに変わるわけです。

 けれど、そんな液体に見える「片栗粉の水溶き物体」も、その物体に対して力を与え・変形させてしまえば、「部分的に片栗粉=澱粉粒子の隙間に水がいない状態」ができてしまいます。・・・ということは、粉体間の抵抗が強く、液体というより、まるで粘弾性体のような”固い”感触に姿を変えます。このような現象を("dilate"=膨張するという言葉に由来して)”ダイラタンシー”と呼びます。だから、片栗粉を水に溶かした”液体”で満ちたプールの液面を走り抜ける、ということもできるわけです。

 ハインツのケチャップの粘性のナゾ?「喉越し過ぎるビールの速さ」と「ポタージュスープのトロみやら、そんな楽しさを感じさせる食材がキッチンには転がっています。

 「今ある食材で、今日は何を作ろう?」「マンネリにならないようにしたいけど・・・どうしよう?」と頭を悩ますとき、たとえば、クックパッドのようなサービスは私たちを助けてくれます。簡単だけれど、ちょっと美味しい料理のレシピを私たちに教えてくれます。

 もしも、台所にある食材で、あるいは、家の中にある小道具で、勝手に変な実験レシピを提供するサービスがあったら、どんな毎日になるだろう?と想像します。「クックパッド』ならぬ「サイエンス・クックパッド」があったとしたら、家の中はさぞかしエキサイティングで新鮮なことばかり起きる実験場に変わるに違いありません。キッチンをマッドサイエンティストのラボに変えてしまう、そんなサービスがあったら、どんな世界になるのでしょうか。

2011-01-24[n年前へ]

「HDR写真」と「現実」 

 ハイダイナミックレンジ合成写真(HDR写真)は、とても不自然に見えます。そして、それと同時に、HDR写真からは一種独特の空気感を感じます。右の写真は、一年近く前に撮影したHDR写真です。水鉄砲を手にするこどもが遊ぶ横を、本物の銃弾を撃つことができる銃を持つ人たちが歩いていたりします。日が真上から差すこの時間には、大人は日陰で休んでいるので、通りの中心はまるでこどもたちが支配している世界であるかのようにも見えたりもします。戒厳令が出ている街とは思えない景色です。

 HDR写真にしないと、日向と日陰とのコントラスト、陰と陽のコントラストを滑らかに映し出すことはできません。かといって、HDR写真にしてしまうと、現実味が欠けた景色にしか見えないのも、また事実です。

 肌にまとわりつく熱い空気と折り合いをつけながら歩いていると、ビルの壁に張られた大きなドラえもんと目が合います。重要個所を守る警備員が本物の銃と共にドラえもん銃も持っているのを眺め、こどもやその家族が同じようにドラえもん水鉄砲を抱え遊ぶ姿を眺めていると、自分の目で眺める景色のコンストラスとが全然わからなくなります。そんなとき、目の前にある景色が、まるで、ハイダイナミックレンジ合成写真(HDR写真)であるかのように感じられたりもするのです。

「HDR写真」と「現実」






2011-01-25[n年前へ]

「分数階微分」「半端(ハンパ)階微分」…どんな名前が好きですか!? 

 最近、私の周囲若干1メートルの近世界では、数学が大ブームになっています。だから、たとえば、「ノルム空間のすべてのコーシー列がその空間中に極限を持つとき」と口ずさめば、その奇々怪々で意味不明な呪文を聞いた人は、すぐさま「その空間は完備"completeness"であり、バナッハ空間"Banach space"とよばれる」と一気に答えなければならない、と暗黙のルールがあるくらいです。

 そんなマイリトル数学ブーミングな雑談中で、なぜか「分数階微分」の話題になりました。それは、「分数階微分」の「分数階」は他の名称の方が混乱しなくて良いのではないか…などという、役にも立たないそうもない楽しい雑談です。

 関数f(x)をフーリエ空間でF(w)と表すとき、f(x)のn階微分は(iw)^n F(w)と表される。

Fractional Derivatives
 「n階微分」と書くと、まるでnは整数であるかのようですが、この「分数階微分」における「n階微分」のnは分数=有理数に限る必要もなければ、実数に限る必要もない・・・となれば、「分数階微分」の「分数階」という名付けを少し考え直したくなります。

 "分数階微分"="Fractional Derivatives"のFractionalに、"分数"=有理数という意味を感じてしまうと、何だか少しわかりにくくなるかもしれません。むしろ、そこからは、”半端(ハンパ)な”という実に中途半端な意味を感じた方が、むしろわかりやすく、楽しいような気もします。

 「分数階微分」の代替ネーミングを考えるとしたら、どんなものになるでしょうか?「分数階微分」「半端(ハンパ)階微分」、一体全体、どんな名前が自然に感じるものでしょうか。・・・こんな話題が楽しそうに思えたならば、街を歩きながら、こっそりこんなフレーズを口ずさんでみましょう。「ノルム空間のすべてのコーシー列が・・・」、きっとそのとき、あなたの横を駆け抜ける人が、「その空間は完備であり・・・」と答えてくれるはずです。

2011-01-27[n年前へ]

「自分の中」や「できること」が見えますか? 

 何年か前のNHK朝の連続ドラマ、「ちりとてちん」のDVDを借りて、ノートPC で眺めていると、こんな台詞が聞こえてきました。

「自分の中にないもんやろうとしたらあかんで。

 「できるかわからないこと」を引き受けるかどうか考えるとき、「それをできるか」どうかをということに頭を悩まされると同時に、「それが自分の中にあるか」ともついつい考えてしまいます。なぜかというと、「自分の中にないもの」をしようとしても、どうしても、いつか気持ちが続かなくなって・・・、結局できなくなってしまうからです。

 「できること」と「自分の中にあること」は違います。「何かをできるか」ということと「その何かが自分の中にあるか」ということは、決して同じことではないのだろうと思います。「自分の中にあるけれど、できないこと」ということもあるのかもしれませんし、「自分の中にないのに、できること」ということも、もしかしたら、あるのかもしれません。「ずっと、できなかったことなのに、いつかできるようになる」こともあるかもしれないと思ますし、「今はできても、ずっと続ける気持ちにはなれないこと」だって、あるのかもしれません。

 「自分の中」や「できること」は、見ることができるのでしょうか。それとも・・・見ることはできないものなのでしょうか。

 さてさて、今日のタイトルはテレビドラマ「不揃いの林檎たち」のサブタイトル意識です。この記事の「関連お勧め記事」を読み進めると、色んなテレビドラマや、そのサブタイトルが浮かんでくるかもしれません。

2011-01-28[n年前へ]

「磨く技術」と「広い視野」 

 「32年、240人の卒業生を見送った金八先生が定年を迎える」といいます。それぞれの世代ごとに違う「金八先生」像もありそうですが、今でも台詞を思い返すことがあるのは、第2シリーズ、つまり、「腐ったミカンの方程式」のシリーズです。それは、たとえば、当時の高収入ランキングを黒板に張り「上位は鳶職・建築関係など(学歴でなく)技術が必要な職業ばかりです」と語るこんな台詞です。

 周りの風潮に惑わされることなく、みんなは自分のやりたいことをしっかり見つけなさい。(中略)ただし言っておくけどもね、そこにはしっかりとした技術を身につけていなければ生き残れないという掟、厳しい掟があることもどうぞ忘れないでください。(中略)自分の技術は自分で一生懸命磨いていく。(中略)そしてもうひとつ。狭い視野で物事をとらえないということ。

 その時、授業を受けていた”腐ったミカン”と呼ばれていた加藤優(直江喜一)が、その後、建築技術者という天職を見つけたことも、少しできすぎていますが、とても自然な流れにも思えます。

 各”金八”世代なら、記憶の中に色んな「金八語録 」を抱えていそうです。金八先生の言葉をふと思い返した、技術を磨き・広い視野を手に入れたいと考えます。

2011-01-29[n年前へ]

歯医者さんの「うがい用カップ注水器」のナゾ 

 歯医者さんに行くと、いつも「うがい用のカップ」に水を注ぐ機械が気になります。紙コップを置くと、うがいをするための水や液体を自動で注ぎ始め、ちょうどよいくらいの高さまでくると(これまた)自動でストップするという機械です。

 昔は、コップを置く部分にスイッチが設置されていたこともあるような気もしますが、今ではそのような機械を見ることはなくなってしまいました。そこで、自動注水機構がどのように動いているのかを知りたくて、椅子に座って治療を待ちながら、コップに水を注ぐ部分を下から眺めてみました。すると、そこには穴が3つ空いていました。

 もちろん、その穴の内のひとつは、注水口に違いありません。ということは、残り2つで水の量を計測しているのだろう、ということになります。ふたつの穴ということは、片方は”何かを出す”穴で、もう片方が”何かを受ける穴”という具合に思えます。

 となると、まず思いつくのは光を水面に対して斜めに照射して、水の量が所定の高さになった時の水面からの鏡面光を受ける位置に光を受けるセンサを配置する、というやり方でしょうか。あるいは、超音波を出して、その反射を受けることで距離を測るというやり方でしょうか。

 歯医者さんの行くのが好き、という人はほとんどいないでしょうが、そこにある「うがい用カップ注水器」を眺め、その仕組みに心惹かれてきた人は多いのではないでしょうか。あの歯医者さんの「うがい用カップ注水器」は一体どんな仕組みになっているのでしょうか?

歯医者さんの「うがい用カップ注水器」のナゾ






2011-01-30[n年前へ]

続 歯医者さんの「うがい用カップ注水器」のナゾ 

 歯医者さんの治療椅子の脇にある「うがい用のカップ」、コップを置くとうがいをするための水や液体を自動で注ぎ始め、ちょうどよいくらいの高さまでくると(これまた)自動でストップするという水を注ぐ器具が気になり調べ始めました。歯科用の「蛇口」を商品カタログから探してみると、まずは右写真のようなタイプが見つかりました。これはコップがあるかどうかを検知して、所定時間水を注ぐ、という機能を備えたもののようです。こういったものを昔よく見たような気がしますが、先日見た蛇口はこういうタイプではありませんでした。

 さらに調べて行くと、最近の注水装置はコップの中に入っている水の量を、光センサや超音波センサなどで取得して所定量を注ぐものが多い、ということがわかりました。私がしげしげ眺めたのは、そういうタイプだったというわけです。

 ところで、歯医者さんの「うがい用カップ注水器」のナゾを調べている途中で見つけたのが、右に貼付けた「100年以上前の、歯科用注水器具を備えた器具の(特許用)図面」です。19世紀の昔から、こんな器具があったんだと思うと、何だか不思議な気持ちになります。

 ところで、・・・この19世紀の歯医者さんに通う人たちは、どんな風に麻酔をかけられ、一体どんな器具や手順で歯を治療してもらっていたのでしょう?想像すると、ちょっとコワイような気がします。そして、未来の人たちが、今の歯医者さんを眺めたら、どんな風に見えるのでしょうか・・・。