2011-12-01[n年前へ]
■ビリヤードの「バタフライ」トリックの「配置図」
「おっ?これは!」と驚かされるビリヤードのトリックショットに「バタフライ」があります。ビリヤード台の中央近くに6つの玉を置き、それらに手玉をぶつけ、一撃で6つの玉をすべてポケットに落とすというテクニックです。
バタフライの玉配置をまずは単純に描いてみると、下図のようになります。左右対称に3つの玉をくっつけた状態で置き、左右にある3つの玉と3つの玉の(玉の大きさの2/3ほどの)隙間に手玉を打ち込む、という具合です。図を眺め、そして玉の動きを実際に眺めていると、玉配置の妙(たえ)に感嘆させられます。玉同士が衝突する際のズレやすべりを経て、6つのポケットへと玉が放射状に転がっていく動きを作り出す仕組みですが、実に絶妙です。(参考:スローモーション動画)
ビリヤードのゲームソフトなどは、こういう動きをどのように再現しようとしているのでしょうか?玉の動きを単に剛体球として計算しようとすると、このバタフライのようなトリックは再現することができないでしょう。だとすると、ボール同士の接触が時間をかけて行われるような(たとえば個別要素法のような)計算を(パラメータ調整などで)「らしく」適当に実装しているのでしょうか。
もしも、ビリヤード玉の衝突後の動きを予測・表示するAR Poolを使って、このバタフライトリックを眺めてみたら、一体どういう「未来予測」がされるのでしょうか?
それにしても、「単純なシステム」なのに驚かされること・面白いことが、世の中には意外に多くあるものです。
2011-12-02[n年前へ]
■続 ガリガリ君のアタリは法律上限の2倍近い高確率だった!?
「ガリガリ君のアタリの確率は(アタリ確率の上限を決めている)景表法の2%上限規定に違反してた!?」という「ガリガリ君のアタリは法律上限の2倍近い高確率だった!?」の継続研究を続けています。真冬を感じさせる寒い日が続きますが、それでもガタガタブルブルと震えつつ、ガリガリ君 梨味を毎日食べ続けています。…それどころか、自分だけでは数をこなせませんから、「ガリガリ君食べたい」と囁いた人には、もれなく「ガリガリ君」をおごるガリガリ君プレゼントサービスまでして・研究を続けていたりします。
今日は、ガリガリ君を売るコンビニで働く方に「ガリガリ君のアタリの謎」について尋ねてみました。ガリガリ君のアタリは「どういう数」になってるのか・アタリは「どういう風に交換する」のか、ということを尋ねてみたのです。すると、こういうお答えが返ってきました。
ガリガリ君は、仕入れ数に対し所定比率のアタリ分が付いてくる(納められてくる)。アタリ棒を持ち「交換」しに来たお客さんがいればお店にあるガリガリ君の在庫と交換し、もしも在庫がなければ「すみません、今は在庫がないので別の日にお願いできますか」と交換を断ります。
「仕入れ数に対し所定比率のアタリ分」というのが、前回調べた「31本につきアタリ1本」という比率なのかどうかは不明です。前回調べた「赤城乳業 ガリガリ君ソーダ 31本+アタリ分1本入 」パックはコンビニエンスストアなど小売店に卸されているものとは別かもしれません。
…というわけで、今日はコンビニで調べる「ガリガリ君のアタリ研究レポート」報告をしてみました。暑い夏も、寒さの冬も、まだまだ、ガリガリ君アタリ研究は続きます。
2011-12-05[n年前へ]
■「こどもに贈り物を届けたいと願う”存在”を蒸留したもの」こそサンタという存在だ
「大人」に対して、「サンタクロースはいると思うか?」「世界中に何人のサンタクロースがいると思うか?」という調査に関するニュースリリースを読みました(「クリスマスの過ごし方」に関連する調査)。その結果は、 サンタを信じる大人は3人に1人で、世界には289,500人のサンタがいる…と考えている、というものでした。
「サンタクロースはいるはずがない」という「証明」をかつてしようとしたことがあります。しかし、そんな否定の証明をしようとして気づいたことは、サンタクロースは確かに存在していたんだ、ということでした(サンタが街にやってくる - 複数サンタクロースの巡回問題)。
Q: 調べていて,意外な結論が導きだされたりすることはあるのですか?
A: いいえ、結論(オチ)まで考えてから実際の計算や 実験に取りかかるので,意外な答えに至ることはありません。ただ、一回だけ、「意外な答え」に気づき、驚いたことがあります。それは、「サンタが街にやってくる」という話です.
月刊化学
ちょうど10年前のこと、無味乾燥な数式をノートに書いているうちに気づいたことは…その数式の意味として気づかされたことは、「(すやすやと眠る)こどもに贈り物を届けたいと願う”存在”を蒸留したもの」こそがサンタクロースという名前で呼ばれる存在であって、そんな存在が確かに(小さかった頃の)自分の前にもかつて居て、時を経て、自分の目の前やその先にもいるだろう、ということでした。
だから、『成人男女の3人に1人が「サンタクロースはいると思う」と考えている』というのは、それって全然不思議じゃないよね、だってそうでしょう?……と、そう強く感じるのです。
2011-12-06[n年前へ]
■人に優しい「ジグザグな手すり」
JR お茶の水の駅で「ジグザグな手すり」を見かけました。こんな作りの手すりを見たことがなかったので、手すり周りを観察していると、その近くにジグザグ手すりの説明が書いてありました。その説明を読んでみると、階段を降りるときは手すりでしっかり体を支えることができ、登るときは手すりを握って引っ張りやすいという、ナルホド!人に優しいデザインです。
この人に優しい「ジグザグな手すり」のコストは、普通の「真っ直ぐ手すり」と比べて、どのくらい高いのでしょう。 多くのことにおいて、コストと何かがシーソーゲームをしていることが多いものです。この手すりの場合には、使いやすさが、どのくらいのお値段アップに打ち勝ったのだろう?と考えます。
2011-12-10[n年前へ]
■「水風船モデル」のバスト形状再現を実験的にやってみよう!?
以前、バストを「水風船」のようなモデルで近似した上で、バストの形状シミュレーションをしたことがあります。
「水風船バストモデル」における内部の水には重力がかかり、バストの下の方にいくほど圧力がかかっている。そして、皮膚に面している内部の水はその圧力を皮膚に伝える。そして、皮膚はその圧力で変形しながら水で満ちたバストを支えるのである。今日は、そんな水風船モデルにもとづくバスト形状に関して、再現実験をしてみることにしました。つまり、水風船に水を入れて膨らませ、その水風船の(断面)形状を眺めてみることにしたのです。
オッパイ星人の力学 第四回〜バスト曲線方程式 編
小さな水風船に水を入れた上で、水風船をギュッと握ると、下の写真のようになりました。このサイズの水風船では「(皮膚の)ハリ」が良過ぎるようで、少しは垂れるとはいえ、ほぼ半球状になってしまいました。
風船は、あまり膨らませていない状態では、中の圧力が高いものです(参考:続 「小さな風船」と「大きな風船」の圧力はどちらが高い!?)。…というわけで、次回はもっと大きな風船で、つまりはもっと大きく・巨大な「バスト」での実験をしてみたい、と思います。
小さいバストほど魅力的だと母に教えられて育った。しかし、大きいバストが好きな男性がいることに気付いて驚き、「なぜ」と考えたのが研究のきっかけだった。
(中略)
「大きいバストが本当に普遍的に好まれるかを知りたい。控えめなバストが淘汰されてしまうとは考えたくないから」と話す。
東大大学院の東海林さん( from オッパイ星人の力学 第四回〜バスト曲線方程式 編 )
2011-12-11[n年前へ]
■「同じ月を見ましょうか」「女性の超能力」『発想・実装力の魔法のエキス」など
最近の「走り書き」を少し整理して、「同じ月を見ましょうか」「女性の超能力」『発想・実装力の魔法のエキス」「秋葉原という宇宙と始まり」「天才の努力」「消し去られてしまいがちな、試行錯誤と自然な繋がりの過程」「通学路の冒険」といった話題。
昨夜は、たくさんの人たちが眺めた「月食」写真を見た。 遠く離れた人たちが、同じ月食を見ることができるのは、月が地上から遙かに遠く離れていたから、だろうか。…これが、地表数十km上空で生じる「流星」だったりするならば、みなが同じ景色を眺めることはできないのだから。(参考:あなたと見たい、流星群 同じ流星が見える距離)
月を眺め・語る言葉を読むと、英語の"I love you."を日本語で伝えようとするならば、「月が綺麗ですね」と書けば良い、と言ったと”される”夏目漱石の言葉を思い出します。
「(誰かと同じ何かを)一緒に眺めたい」という言葉、そしてその言葉を出させるに至る「心」を想像してみると、それは確かに、ひとつの"I love you."かもしれない、とも感じさせられますね。
ある女性の「その場・その先の展開を読む勘と運と、それを支える頭の回転」に驚く。そんな能力は、「場を読む」ことが求められる人生を経なければ獲得し得ないのではないかと、ふと考える。…そうだとしたら「オタクなぼくら」には、そんな超能力を手に入れることは、未来永劫できなさそうだ…と思う。
パノラマ写真で眺める「秋葉原ラジオセンター」の各店は、それぞれの店が、まるで小さな宇宙のよう。そして、 電気街としての秋葉原が誕生した頃の、生まれたての秋葉原ラジオセンターは、(秋葉原で育ったぼくらには)何だか新鮮でとても良いかも。
立体「赤青メガネ」の名刺って、何だかすごく面白い。こういう楽しいことを思いつき・さらに作っちゃうという「発想力と実現力」を育てる魔法のエキスは、街中を興味深く眺めていれば、きっとどこかに落ちていそうな気がする。
林家たい平師匠に、「大喜利をするための技術」について尋ねてみた。あれは本芸でなく余芸です、という言葉の後に、談志師匠は、天井にたくさんの言葉を貼り、あの言葉にはどんな噺をしようか、といつも考えようとしていたという話を聞きました。天才といわれる談志師匠でない凡才の私たちでも、そんな努力をし続けていたならば、縦横無尽にあらゆる話題を有機的に明晰に繋げることが、いつかできるようになるのでしょうか。
本芸を磨こう。
何かができあがるまでには「自然な試行錯誤の過程」があることが多い。しかし、たとえば、完成した技術や理論を説明するに際しては、そうした過程は消しゴムで消し去られ・削り取られて「論理的に必要十分な最小限の説明」がされる。…だから「その発想を追いかけることができなくて、わかりにくい」ということも生じやすい。
夏の朝、ランドセルを背負った女の子たちが、日陰だけを走り抜け学校に向かっていた。冬が始まっている今日は、日向(ひなた)をベースキャンプに、校門に向かい歩く男の子たちがいる。ほんの短い時間に、彼女・彼らは「大航海・大冒険」を楽しんでいる。…それに比べれば、おとなたちの「一日」が短く感じられてしまうのは、至極あたりまえの話、かもしれない。
そんな景色を見て、いつも歩く道とは違う道を通ってみた。すると、いつもとは違う発見があった。だから、こう思う。ランドセルを背負ったこどもたちを見習って、「同じ道を歩かず、なるべく違う道を歩いてみることにしよう」
2011-12-12[n年前へ]
■たった50円で作る!?「三脚取り付け対応スマートフォン用ケース」
今日は(基本セットだけならば)50円ナリで、「三脚取り付け対応スマートフォン用ケース」を作ってみました。
スマートフォンを三脚に取り付けたくなることがあります。そんな時は、スマートフォン用「三脚取り付けアダプタ」を使うことになりますが、なかなか使い勝手の良いアダプタは見つからないものです。なぜかというと、多くの三脚取り付けアダプタは、「万力」のようにスマートフォンを挟むタイプが多いのですが、上手くスマートフォンを挟むことができなかったりするからです。縦・横・厚みなど、スマートフォンの大きさと「万力」の許容範囲が合わなかったり、あるいは、挟もうとすると液晶画面やボタン類と干渉してしまったりするからです。そこで、50円ナリで「三脚取り付け対応スマートフォン用ケース」を作ってみたのです。
まずは、DIYショップやホームセンターに行き、一個50円の内径1/4インチのナットを買います。内径1/4インチのナットは、カメラに備えられている三脚固定用のネジ穴と同じものです。そして、(スマートフォンを持っている人なら、きっと持っているだろう)スマートフォン用ケースに、その1/4インチ・ナットを超強力接着剤でガチッと固定してしまうのです。横位置・縦位置、カメラを固定したい方向・向きに合うように、ナットをスマートフォン用ケースに固定してしまえば「三脚取り付け対応スマートフォン用ケース」のできあがり、です。
私の場合は、スマートフォンを「ありとあらゆる方向」に三脚に固定することが可能なように、1/4インチナットをスマートフォン用ケースに4個もペタペタと貼り付けてしまいました。しかし、それでも「たったの50円×4個=200円ナリ」です。そんな格安コストで、スペシャルな「三脚取り付け対応スマートフォン用ケース」ができあがりました。
たった50円の「三脚取り付け対応スマートフォン用ケース」は結構便利です。あなたもひとつ作ってみるのはいかがでしょうか。
2011-12-13[n年前へ]
■続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」
一月と少し前、『「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」』という雑文を書きました。 それは、「asada's memorandum (ゴッホの本当のすごさを知った日)」という記事に対し、「間違っている点」と「興味深い歴史的な情報」を書いてみたものです。
「ゴッホの本当のすごさを知った日」に書かれている内容は、要約すると、およそ次のようになります。
- ①ゴッホは色覚が異常だったのではないかと言われているそうだ。
- ②P型色覚と「普通の」色覚の中間的なものを”疑似体験”させるような色変換をゴッホのRGB画像に掛けてみた。
- ③色変換された画像は”自然で素晴らしく見えた”から、ゴッホはP型かD型の色覚特性を持っていたのだろう。
色覚”疑似体験”ツールというのは、原理上、ある色が「どの色」に変換されるかということには、あまり意味がありません。あくまで、どういった色群が「見分けにくい色」となってしまうかを疑似体験するものに過ぎません。それらの「見分けにくい色」を、実際のところ「どういう色」として感じているかまでを追体験できるものではないのです。ましてや、その色覚”疑似体験”ツールにより変換出力された色調をもって、絵画の色表現や階調表現を論じる・感じることができるようなものではありません。ここにある「使い方への間違い」は、「さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか」ということを整理しないままに作業を行ってしまったのではないか、と思います。この『さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか、ということを考える』という点について、今回はもう少し詳しく書いてみることにします。
下の図は、人が景色を眺め・その景色を描こうとする際に、人がどのように色を感じ・色を描くかを(簡易的に)示したものです。「目の前の景色から発せられた(さまざまな波長毎に異なる強さを持つ)光」は、眼の中にたくさん存在する(色を感じる)3種の錐体に刺激を与え、そして3種の(しかしたくさん存在する)錐体からの刺激は複合的に組み合わさった上で「明暗チャンネル」「緑ー赤チャンネル」「黄ー青チャンネル」の3つとなって、脳の中へと送り込まれた上で、大脳中枢でその情報が処理されていきます。その(眼から脳までの)人体内の色処理の繋がりを限りなく大雑把に示したものが、下図の右に描いた「処理システム」です。
ここで注目すべきことは、眼の中にあるたくさんの錐体に辿り着いた「光」は、それが「さまざまな波長毎に異なる強さを持っている=多くの情報を持っている」にも関わらず、わずか3つの色情報へと変換されてしまう、ということです。それはつまり、本来は違うスペクトル(各波長に対する光強度)を持つ「光」を、人は同じ「色」として認識してしまう、ということです。 だから、たとえば、左下に貼り付けたようスペクトルを持つ光と、右下に貼り付けたような光を(多くの)人が眺めたならば、それら2つの光が「違う光波長分布」の「大きく異なる光」であるにも関わらず、それらを同じような・区別することができない「色」として感じてしまいます。
あるいは、こうした「処理システム」、つまり私たちの頭の中での色は「明暗チャンネル」「(”緑っぽいか赤っぽいか”を示す)緑ー赤チャンネル」「(”黄っぽいか青っぽいか”を示す)黄ー青チャンネル」というった3チャンネルのみで処理されるがゆえに、私たちが「赤色と緑色」あるいは「黄色と青色」といった「補色」を同時に感じることができないという現象が生じることも自然と理解できる、というわけです。
この(眼の中にある)錐体の光波長感度分布などは、人それぞれの個性・違いがあります。だから、「どのような光を同じ色と感じてしまうか」は異なります。あるいは、さまざまな異なる光を「どのような(どのように)違う色」として見分けるか、ということも異なります。
そういった違いから生じる「(他の人の)違う色として区別しにくさ」を(ほんの少しだけ)理解することを目的として作られている道具の一つが、色覚”疑似体験”ツールです。それらのツールが行う処理がどのようなものかというと、(疑似体験したい錐体光波長感度分布下で)任意の光がどのような「明暗チャンネル」「緑ー赤チャンネル」「黄ー青チャンネル」を生じさせるかを計算し、その計算結果と同じ3刺激を与えるような光を表示させることで、(疑似体験したい錐体光波長分布などを持つ他の人にとっての)「違う色として区別しにくさ」を理解しようとするものです。
…ただし、それらのツールにより変換出力された結果(色調など)は、「絵画の色表現や階調表現を論じる・感じる」ことができるようなものではありません。(ちなみに、RGB値から計算を行うような簡易ツールの場合、そのツールが行う処理は一種の単なる色域圧縮のようなものになります)
たとえば、人が景色を眺め・その景色を絵の具を使って描こうとする時、その景色を見て感じる色も・その景色を描くために選ぶ絵の具も、選ばれた絵の具で描かれた絵も、すべて「それぞれ個人ごとに大なり小なりに異なる(人それぞれの)色処理」がかかります。だから、もしも色を忠実に再現しようとする画家=見た景色と同じ”色”に感じる絵の具をただ選び出すような画家が”もしも・仮に・百歩譲って”いたとしたならば、描かれた絵が派手であれば・その画家は景色をも派手に感じていたことになる…というわけです。
そして、この「派手」とか(あるいはその逆の)「自然で滑らか」とかそういった感覚を育み・作り出すもの=毎日眺める景色・生活のすべてにも、そんな「処理」が掛けられているわけです。つまり…色変換処理を掛けた画像から、”自然”とか”良い”といったことを考えることができるほどには、単純な話ではないのです。画家本人の「色としての感じ方」を考えるのであれば、景色や絵具やキャンバス上の絵といったすべてに処理を掛け・考えなければいけないし、絵を見る側の「色としての感じ方」を想像しようとするならば、絵だけでなく・普段眺めるものすべてに変換処理を掛けた上で、想像しなければならないわけです。
そういったことを考えながら、「ゴッホの本当のすごさを知った日」という記事を読んでいくと、あの記事が「さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか」ということを考えないまま、思いを巡らせないまま、そして、整理しないままに書かれたのだろう、と感じてしまうのです。
2011-12-14[n年前へ]
■「書くこと」を決める「道具」を作る、ということ
自分のサイトの「走り書き」として、ハイバー日記システム(hns)を入れたのが、10年以上前。その頃書いた走り書きは、今の時代の"twitter"で書かれているようなことだった。思ったことを、ただ書いていた。
hnsという道具をカスタマイズしつつ使っていたけれど、hnsに書く内容も少しづつ変わった。変わったのは、読み手を意識せざるをえなくなった、ということが一番の理由だったと思う。インターネットという道具に、「思ったこと」のうち、「考えたこと」は書くにしても、「感じたこと」はあまり書かなくなった。
その後、サイト自体をすべてRailsという道具で構築し直した。HTMLベタ書きの記事と日記(hns)を統合し、サイト記事をArticle, Memo, Logo, Techlogという4つのクラスに分類した。Articleは、「ある程度まとまった技術的な内容で、何らかのオチを含むもの(できるかな?)」、Memoは「自分で作った何らかのもの」、Logoは「(読んだ・見た)メモしておきたい他人の言葉」、Techlogは新技術情報や技術メモ、だ。
自分が使う道具を、そういう分類・考えのもとに作った結果、ArticleクラスはMemoクラスに浸食され、そしてまた、「感じたこと」や「考えたこと」も書かなくなった。
そこで、(まったく使う気がなかった)twitterを使ってみることにした。もしかしたら、後で思い起こしたくなる「考えたこと」や「感じたこと」を扱うことができるかもしれない。
そろそろ、道具を作り直すべき時期が来ているのだろうか。「書く内容」をも決めてしまうだろう「道具」を作り直すとしたら、どういう風に作れば良いだろう?
そしてまた、こう思う。道具の名前が「日記」でも、「ブログ」でも、「書くこと」を決める「道具」を作る側には(そこから作られる)世界をどうしたいかという 「夢」と「覚悟」がいる、と思う。
2011-12-15[n年前へ]
■「月食が赤かった」のは「地球の夕焼け」に照らされていたからだ!
「月食が赤かった」のは「地球の夕焼け」に照らされていたからだ!を書きました。一時間近くの間、空に浮かび続ける「赤い月」は…とても綺麗でしたね。
だから、あの皆既月食の夜、私たちが見上げた「赤い月」は、実は(遙か彼方の)地球の周りに輝く”夕焼け”に照らされた赤い月だったのです。 そんな”地球の夕焼け”に照らされて、赤く染まる月を、私たちがその地球の上から眺めていたのです。 …何だか、少し不思議で、とてもロマンチックですね。
2011-12-16[n年前へ]
■「”1画素・1フレームのみ”からの動き検出!?」のナゾを解く
画像中の「動き」のようすを「オプティカルフロー」という言葉で表します。そして、「道路をビデオカメラで撮影し、画像中の(各画素の)動き=オプティカルフローから、車の速度を検出する」といったような用途に使われたりします。ちなみに、オプティカルフローを表す方程式は、(そのまんまですが)オプティカルフロー偏微分方程式と呼ばれます。
先日、「画像中の動き=オプティカルフロー」を「単一フレームのみで知ることができる」という技術展示を見て、ん?と首をかしげました。”動き”というのは、時間を経て画像がどう変化(移動)したかということですから、もしも、時間方向に関する何らかの手がかりがなかったとしたら、「動き」というものは知りようがない情報であるからです。
今回展示するシステムは、時間相関イメージセンサを用いることで始めて可能になったもので、1画素、1フレームだけでオプティカルフローを検出できます。フレーム間の移動量の制限はありません。アルゴリズムは数学的に厳密な解を少数回の代数計算だけで生成します。
技術報告パネルに書かれた数式を眺め、動作をイメージしてみて、その疑問を解決する「答」がわかりました。ここで言う「単一フレーム」は、「ある瞬間の画像」を意味する「(いわゆる)フレーム」ではなかったのです。私が首をかしげた技術、「時間相関イメージセンサ(複素正弦波変調撮像)によるオプティカルフロー検出」を(私と同じように)疑問に感じた人もいらっしゃるかもしれませんので、この「単一フレームのヒミツ・トリック」に関するメモを、下に書いておきます。
まず、時間相関イメージセンサ(複素正弦並変調撮像)は、(たとえば1/30秒毎に映像を出力するのであれば)1/30秒の間ずっと各画素への光量を「三角波を掛け合わせた上で」積分し続けます。そのように三角波を掛け続けつつ積分し続けた結果を、1/30秒の後に出力します。これが「1フレーム」です(図中の①「式をイメージしてみる」という部分です)。…勘が鋭い人なら、この時点でもうおわかりでしょうが、この技術報告中での「1フレーム」は「時間を止めた”ある瞬間”の画像」ではない、というところがミソであり、「んっ?」と感じる疑問・謎を解くカギです。
もっと「わかりやすく」するために、三角波を矩形波に変え・1フレーム内の”時々刻々”を”2つ”だけ考えてみることにしましょう。つまり、「本来は1フレーム内で連続的に三角波と画素値を掛け合わせつつ・積分する」という処理を、「1フレーム内の前後2瞬間に矩形波と画素値を掛け合わせて、さらに足す」と単純化してみることにします(図中の②「わかりやすさのために、Sin波を矩形波にしてみる」という部分です)。
すると、話が単純明快に見えてきます。なぜなら、(たとえば)1フレーム内の前半で矩形波の値がマイナス1・後半がプラス1とすると、「1フレーム内の前後2瞬間に矩形波と画素値を掛け合わせて、さらに足す」ということは、「1フレーム内の後半画像から前半画像を引く」という、まさに異なる時間の映像間で「差分画像」を計算する、という処理になっているからです。…それは、まさに普通にオプティカルフローを求める(よくある)手順そのまま、です。
というわけで、「時間相関イメージセンサ(複素正弦波変調撮像)によるオプティカルフロー検出」を「わかりやすく」してみました。
しかし、このカメラの「発想」は意外で面白く感じます。普通のカメラは1フレームの間光を単純に積算し続けていたりするわけですが、このカメラでは単純な積算でなく時間方向に「演算」を行います。他の用途にも色々応用ができそうですね。
2011-12-17[n年前へ]
■「同じ月」はみんなで眺められるのに、近くの人しか「同じ流れ星」を見れない理由
『「同じ月」はみんなで眺められるのに、近くの人しか「同じ流れ星」を見れない理由』を書きました。
今週からクリスマスくらいまでの間、冬の澄んだ夜空の向こうから、こぐま座流星群が地球へと降り注ぎます。 しかし、月食と違って、「同じ流れ星」をみんなで眺めることはできません。 なぜ、同じ月食をみんなで眺めることができるのに、同じ流れ星をみんなで見ることができないのでしょうか?
2011-12-18[n年前へ]
■300円で作る「スマートフォン・小型タブレット用プロジェクター」
「スマートフォン・小型タブレット用のプロジェクター」を作ってみました。 スマートフォンや小型タブレットの画面を、リアルタイムに、そのままスクリーンに投影し映し出すプロジェクターです。 この「プロジェクター」は、作るのに必要なお金はたったの300円、そして、作るのにかかった時間はあっという間の3分弱、です。
作り方はとても簡単です。 まずは、100円ショップに行き、大きな拡大鏡(レンズ)・鏡・ブックエンドのセット(2個以上であればOK)を買ってきます。 作業にはセロハン・テープも使いますから、もしも家にテープ類がないという方は、接着テープも買っておきます。
さて、工作を始めましょう。 まずは、ブックエンドを繊細かつ力強く、グイッと曲げてしまいます。 曲げるブックエンドはひとつだけ、そして、曲げる角度は、30〜40°くらいです。 さらに、曲げたブックエンドに鏡を貼り付けます。
次の作業は、もうひとつのブックエンドへの拡大鏡(レンズ)の固定です。 ブックエンドの上部に、拡大鏡をテープなどで取り付けます。 …これで「スマートフォン・小型タブレット用のプロジェクター」は完成です。
床や机の上にスマートフォンや小型タブレットを置き、後は2つのブックエンド(鏡と拡大鏡)を適当に置くだけで、白い壁などの(つまりは)スクリーンに、「画面を投影」することができるのです。 スマートフォンの画面をそのまま壁に光学的に投影しているので、「画面を(操作などもリアルタイムに)そのまま」スクリーンに映し出すことができます。 もちろん、それは「良く言えば」の話で、「悪く言えば」ちょっと暗くて・(大画面にすると)ピントが画面全面には合わなかったりします。
たった300円で作ることができる、ちょっと原始的なプロジェクター、あなたもひとつ作ってみるのはいかがでしょうか。 8mm映画の画面のような、少し暗くてぼやけているけれど、懐かしく・幻想的な映像を、あなたの部屋の壁に映し出してみる。 …たとえば、Youtubeから「あなたの好きな音楽が詰まった動画」などを、壁に淡く投影しつつ・音楽を聴く、そんな夜も心地良いかもしれません。
2011-12-19[n年前へ]
■「問題」を解くための「必要3条件」
先週末、"Mathematica Conference JAPAN 2011(Wolframユーザコンファレンス Japan 2011)"を聴きに行きました。その冒頭の基調講演"Computer Based Math"では、"問題” "Problem"を計算機を使って解決していく「手順」が、こんな風に語られていました。
- Understand the problem(課題・問題理解)
- Set up the problem(問題設定)
- Calculate the problem(計算)
- Utilize result of the problem(計算結果の適用)
「…なるほどなぁ」と思いつつ、それと同時に、少し違和感も感じました。なぜかというと、2〜4の過程は互いに分けることが難しい不可分のことであるのではないかと、そう思えたからです。
「解けること(3)」「(答を)役に立つ形で適用しうること(4)」…そんなことを全て理解するという必要条件のもとに、「解決する”問題”を決める・設定する(2)」ということが可能なのではないか、と思います。さらに、(2)〜(4)にいたる「3つのこと」全てを把握するというこそ、(1)の「課題(問題)を理解する」ということ・そのための必要条件なのではないか、とも思うのです。
…つまり、上に書かれた4点の箇条書きは、実は「分けようがない不可分の”ひとつ”のこと」としか言いようがないのではないか、とも思ったりするのです。
そんなことを考えた次の日、「n年前へ」を眺めてみると、こんな言葉をメモしていました(「トンデモ計算」を生む原因)。
科学的知識はわれわれの周りの世界に起こる出来事を説明し、多くの場合、物事のより良いやり方を予知するために用いられるが、それには問題意識と目標が十分に明確でなくてはならないのである。
ワッツ&ベイヒル 「ベースボールの科学」
ここに登場する「問題意識」「目標」といったことを「十分に明確」にするためには、何が必要とされるのだろうか?と考えます。そんな曖昧な疑問に答えるなら…あなたは、どんな「条件」が必要だとて、そしてどんな「答」を出すでしょうか。
2011-12-21[n年前へ]
■Mathematicaから外部Javascriptの出力結果を使う
Mathematica から外部Javascriptが出力する内容を使いたい、という話題がMathematicaのメーリングリストで流れていたので、やってみました。それが下のコードです。メーリングリストへの新規登録ができないようなので、ここに書いてみました。
準備: Mozilla Foundation 謹製のJavascriptインタラクティブシェルである SpiderMonkey http://www.mozilla-japan.org/js/spidermonkey/ をインストール。 (下記コードで読み込む短縮URL先)Javascript サンプル: function times(a, b){ return a * b; } print(2*3); Mathematicaコード: js = Import["http://bit.ly/silGkP", "Table"]; Export["a.js",Prepend[js,"#!/opt/local/bin/js\n"],"Table"]; Run["chmod 755 a.js"]; Run["./a.js > out.txt"]; result = Import["out.txt"] 結果: Out[]= "6" 後はサンプルJavascriptの最末尾にある"print(2*3);"を 使いたい関数などに応じて自動生成してやれば、 Mathematicaから外部Javascript出力を使うことが できる、という具合でしょうか。 処理手順は、Javascriptをダウンロードした上で、 必要構文を追加することでシェルスクリプト化して、 実行結果をファイル経由で受け取る、という具合です。 上記コードはOSX上で動作確認をしていますが、 このJavascriptファイルをシェルスクリプト化する といった辺りの処理は、他環境では不要なのかも しれません。
2011-12-22[n年前へ]
■サンタが街にやってくる(2011年版)
10年前に書いた文章をもとに、キャンパスに通っているくらいの人向けに(いやちょっと無理があるか)、難しいところは割愛しつつ書き直しました。「サンタが街にやってくる」
ひとりのこどもが世界のどこかに現れたとき、どこかのこどもがサンタに変わります。…こどもの声に呼ばれ、サンタへと姿を変えていきます。そして、姿を変えさせたこどもの顔を見た時、世界には確かに本当にサンタがいたということに気づくのです。
2011-12-26[n年前へ]
■「おっぱい」と「愛」
「おっぱいとお月さま(La Teta y la Luna) 」という映画を見ました(ニコニコ動画へのリンク)。1994年に公開されたスペインの映画です。「おっぱいとお月さま」のあらすじ・概要を書くと、こんな具合です。
カタロニアの少年、9歳のテテは、生まれたばかりの弟にママのおっぱいをとられてしまう。 じぶんだけのおっぱいを見つけようと決めたテテが眺める、周りの人たちの喜怒哀楽を、そして愛を、心地良い歌 声と音楽とともに写しだし…そして、テテはおっぱいを手に入れる。ところどころ「ん?」と思う言葉が入っているかもしれませんが、それは映画を見た私の視力と文章力が良くないせいです。 …とにもかくにも、こんなある決意をした男の子テテが、想像力・妄想力たくましく眺める「愛」が描かれた映画です。
ぼくだけのおっぱいがほしい。「おっぱいとお月さま」という映画は人を選ぶ、いえむしろ人によっては「おっぱいとお月さま」という映画を選ばない、と言った方が良いかもしれませんが、この映画を大好きになる人は、私以外にもきっとたくさんいるだろうと思います。呆れたり、笑ったりしているうちに、何だか少し人が愛おしくなるように感じる、そんな映画です。
ぼくだけのおっぱいを見つけることにした。
この映画を見る前に、ある感想を読みました。その中の一文が、私にはとても新鮮に感じられました。
少年が、オトナの世界に触れて成長しつつも、おっぱいへの執着はまったく捨てない、乳離れしない、というのが斬新。 いや、男のコってのは、永遠におっぱいがきっと好きなのだ。テテ(主人公)と同じくらいのおっぱい星人の息子を持つ私には、可笑しくてしかたなかった。新鮮に感じたのは「少年が成長しつつも、おっぱいへの執着はまったく捨てない、乳離れしない、というのが斬新」という部分です。 「そうか、普通は”乳離れ”するというのが世間一般の常識だったのだな!」と目からウロコが落ちて、そんな発見に新鮮さを感じたのです。
「おっぱいとお月さま」
ところで、この「少年が、オトナの世界に触れて成長しつつも、おっぱいへの執着はまったく捨てない」という一文を読んだとき、「男の子は皆バカでヘンで、そして、そのまま大きくなる」という、あるお母さんのこんな名言を思い出しました。
男の子は皆バカでヘンです。ちなみにそのまま大きくなるので、オトコという生き物も基本的にバカでヘンだと思って間違いありません。ちなみに、女の子は意地悪。男女両方を育ててみての感想であり確信です。バカと意地悪が共に暮らす人間社会。いろいろあって当たり前ですね。「バカと意地悪が共に暮らす人間社会、いろいろあって当たり前」…なるほど、それは確かにその通りに違いない、と思わされます。
「男の子はバカでヘン」「女の子は意地悪」
そしてまた同時に、こんな疑問も浮かびます。バカ(男)が意地悪(女)を好きになるのはわかるにしても、なぜその逆のこともあるのでしょうか? 意地悪(女)が、よりにもよってバカ(男)を好きになるなんて、これは一体どういうことなのでしょう。
…愛って難しいな・何だか難しくてよくわからないな、と9歳のテテのように首をかしげつつ、「おっぱいとお月さま」中のあるシーンで、力強く・切なく・限りなく愛おしく響く歌声にただ聞き惚れるのでした。
愛する人よ
こんなに愛せるなんて
叫びたいほど
こんなに愛したのは初めて
今日 愛の言葉を
愛の言葉を 繰り返す
別の人に 繰り返す
愛を込めた 言葉を
たくさんの 愛の言葉を
あり余るほどの 言葉を
…あふれる言葉を
愛の言葉を 繰り返す
2011-12-30[n年前へ]
■10万分の1秒で眺める「一瞬の水滴」
「ゆがんだ形の水滴が作る虹をシミュレーションしてみた」という論文(PDF)が数ヶ月前話題になりました。虹を作り出すのは空気中の水滴ですが、そういった水滴は完全な球というわけではありませんから、そういったゆがんだ形の水滴が作る虹をシミュレーションしてみました、という研究です。そして、ゆがんだ形の水滴が作る、ゆがんだ形の虹が再現された、というわけです。
空気中にただよう水滴は、基本的に重力で下に落ちようとしているわけですから、水滴の下面から空気抵抗を受けひしゃげた形になります。今日は、そんな空気中を落ちていく水滴の形を眺めようと、蛇口の水が水滴へと変化していくようすをコンパクトデジカメで撮影してみました。それが右の写真です。撮影シャッタースピードを10万分の1秒に強制設定し(CHDK)、水滴に向かって「はい、チーズ!」とやってみた記念写真です。ひしゃげた形の水滴が、ガラス細工か水飴(みずあめ)であるかのように柔らかく映っています。
空には、虹だけでなくたくさんのものが浮かんでいます。いつか、空へたくさんの経路を作り・広がり・突き抜けていく雷でも撮影したいものです。
2011-12-31[n年前へ]
■「アンゴルモアの大王」と「大晦日」
1970年代にランドセルを背負っていたくらいの世代の人は、「世紀末」という言葉が当たり前のように体のどこかに染みこんでいました。 五島勉の「ノストラダムスの大予言」が本屋にずらりと並び、大ベストセラーになったからです。 だから、「1999年の7の月には、恐怖の大王がやってくる」という言葉が、その世代の人の頭のどこかには、信じる信じないはさておき、焼き付けられいてて、恐怖の大王がやってくる(かどうかはさておきも)「世紀末」という言葉を、頭のどこかで意識せざるをえなかったのです。
1990年代のいつ頃だったか、スキー場で同行者が転び、軽い記憶喪失になりました。 記憶喪失になった連れは、オロンオロンと涙を流しつつ、色んなことを尋ねてきます。
「ここはどこ?」日時を確かめるために「今は世紀末か?」と訊くくらい、その世代には「世紀末」という言葉が強く頭の中にインプットされていたのです。
(見ればわかりそうだけど、スキー場…)
「今は冬?」
(どう見ても冬にしか見えないよなぁ…)
「今は世紀末?」
(…19世紀末って答えてみようかなぁ)
そして、終末とか世紀末といった「終わり」をいつか迎える、という意識が体のどこかにありました。 そんな「終わり」をあまりに強く・過剰に意識した人たちは、その一部は、オウム真理教に入り、そして地下鉄でサリンを撒きました。 そこに至るまでの背景には、「ノストラダムスの大予言」などを象徴として形作られた「世紀末」「終末」という言葉があったのです。
気づいてみれば、もう1999年の7の月も過ぎ、20世紀も終わってしまいました。 色んなことが起きつつも、21世紀の毎日が始まってから、今日でちょうど10年経ったことになります。 20歳になったら何かが終わる(何かが始まる)と考えていたはずが、とうにハタチなんて過ぎていたり、 20代最後の日を迎えてブルーになっていたはずが、29歳最後の日も30歳最初の日も全く何の違いもなかったり…と、アラサー・アラフォー多種多様な「終わり」と「始まり」を繰り返す毎日が続いているように思います。 いつも「何かが終わる」ことに焦ったり、それから逃げようとしたり、あるいは、立ち向かおうとしてボコボコになったりしつつ、 「20世紀」「十代」「二十代」「三十代」…そんなものたちの「終わり」と「始まり」が、いつだってずっと続いています。
今日は、世紀末ならぬ年末の12月31日、大晦日。 バトンが「終わり」から「始まり」へと受け渡されていきます。 目の前に始まろうとしている2012年は、一体、どんな毎日なんでしょうね。
おもしろき、こともなき世を、おもしろく。
住みなすものは、 心なりけり